ながせ きよこ
父の転勤によって、幼時は金沢で育ち、のち愛知県立第一高等女学校高等科を卒業。学生時代から佐藤惣之助に師事、「詩之家」の同人となる。昭和5年、処女詩集『グレンデルの母親』を刊行。その自序で<私の詩は自由へのあこがれと共に成長した>と述べている。
戦後、岡山へ帰住し、藤原審爾らの「文学祭」、吉田研一らの「詩作」へも加わりながら詩作と著述を続ける。その頃、はじめての随想集『女詩人の手帖』を出す。詩誌「黄薔薇」や「女人随筆」を主宰。昭和30年、インドで開かれた「アジア諸国民会議」へ日本代表団の一員として出席。帰途、中国を視察し2ヵ月後に帰国。昭和62年発刊の詩集『あけがたにくる人よ』で地球賞、ミセス現代詩女流賞を受賞。